江戸初期に京都や大阪で盛んだった見世物小屋が、江戸中期から後期にかけて、浅草に広まりました。 大道芸人が野天で芸を披露し大勢の見物客でにぎわい、京都の四条河原や大阪の難波新地に並ぶほどの常設見世物地区へと成長していったのです。 奥山の隆盛は明治初期まで続き、六区興業街へと移って行きました。 当時の奥山の見世物小屋と大道芸の伝統は、浅草の芸能の根底に今も生きています。
隅田川の両岸に跨る両国が江戸中でもっとも見世物盛んところでしたが、文化文政の時代から徐々に奥山が人気を集め、講釈師 深井志道軒が活躍しました。 この深井志道軒という人、もともとは僧侶。 小柄ではげ頭、歯が抜け腰の曲がった風貌で型破りの講釈が江戸中の人気だったそうです。
浮世絵やビラを江戸中にまいて、浅草の宣伝をしたおかげで、江戸見物というと、 「浅草観音を参詣して奥山で見世物や大道芸を見る事」 と言われるほどでした。 奥山の大道芸の中でも、豆蔵の軽業、芥子之助の手品、源水の独楽 が三大名物と言われました。 当時の様子は西洋人も記録に残しているほどです。
明治に入ると公園法の改正により、浅草公園が6つの区に区分けされ、 浅草娯楽の中心は奥山から六区へと移っていきます。 奥山で見られた野天の見世物は劇場組織へと変更され、後の「木馬館」を中心とした 大衆芸能の街へと移り変わっていきました。